劇団転形劇場(故太田省吾主宰)の研究生となったのは1979年の5月。アトリエである転形劇場工房は赤坂にあった。
この木造アパートの一階部分に転形劇場のアトリエと事務所があった。
赤坂というと繁華街、ネオンがきらめく夜の街というイメージがあるが、その赤坂の裏通りからさらに路地を入ったところだ。
開演前になると、この路地に行列ができる。『抱擁ワルツ』の公演では、私たち研究生が会場内外の整理を受け持った。開演前はそれなりの賑わいがあるのだが、劇が始まると、静かさが劇場からしみだすようだった。そこが他の小劇場とは決定的に違った。私たちも私語はせず、必要がある時は囁くように話していた。いちど路地の入口に焼き芋の車がきたことがあった。「おいしいおいしい焼き芋だよ~……」と例のアナウンスを流しながらだ。私と数人が走っていき、事情を説明して、路地には入らないでもらった。みんなで静かさを守っているような気がした。
一階はアトリエでも、二階は普通のアパートだ。当然住んでいる人がいる。木造の古い建物だから、廊下をスリッパで歩くと、劇場内に音が響く。そこで、公演のたびにティッシュペーパーを一箱持って挨拶周りをする。公演期間はだいたい四週間だったから、二階の方々も公演が終わるとホッとしたことだろう。なかには、毎回観に来てくれる方もいた。
思い返してみると、私が惹かれた舞台のほとんどは、いわゆる劇場ではないところを劇場としたものだった。生の舞台ではじめて感動したのは『泣かないのか 泣かないのか 1973年のために』(櫻舎公演 清水邦夫作 蜷川幸雄演出)で、これは新宿文化という映画館で映画の上映が終わってからのレイトショウ公演だった。状況劇場はテント劇場。浅草の木馬館というところにもよく通ったが、ここはドサまわり、大衆演劇の劇場だった。そして転形劇場。試験に合格して、劇団員との顔合わせ、というか飲み会があり、アトリエにはいってその狭さに驚いた。もちろん舞台を観ていたので、広いはずはないことは知っていたが、それにしてもこれほど狭かったとは!芝居のときは本舞台の周りに空間が、暗幕の外に広がる空間を感じていたのだが、じっさいに素のアトリエに入ってみると、そこには壁しかないのだ。「暗幕の後ろで、ずっと立ってたんだよ、出番まで」と話してくれた先輩もいた。あの狭い空間で、あれだけ豊かな時間を創りだしていたとは!そして、転形劇場の代表作となる沈黙劇『水の駅』も、この赤坂のアトリエで創られたのだ。
私も研究生でした。懐かしく井上さんのブログを観ました。お元気そうで何よりです。
返信削除もう45年前ですね。