2013年10月31日木曜日

太田省吾とのはじめての稽古

 転形劇場の研究生として、太田省吾のことばをアトリエである転形劇場工房の舞台で稽古することになる。



 
 太田省吾作 『老花夜想』の一場面である。
  これがなかなかうまくいかない。盲目の兄の役。たった二頁、これが何度やってもダメなのだ。

 近親愛の世界だ。そこからの脱出を宣言する妹。なんとしても引きとめようとする盲(めくら)の兄。
 二頁目の一行目 「……ね、お兄さん、さようなら。」 この決別のことばを聞いてしまったあとがポイントだと思った。

 盲 お前が男に抱かれるのか、えっ、そして、そいつに笑いかけるのか。
 妹 ええ、一番いい顔をして抱かれます。
 盲 だめだ、おれは許さないぞ。

 ここがわからない。ああ言ってもダメ。こう言ってもダメ。あの役者ならこうか、この役者ならこうか……などと考えてみるが、どれもダメ。テレビで見るような演技では問題にならない。盲人の役だ。目をつぶって思い切り大声で叫んでみる。 「お前が男に抱かれるのか、えっ、そして、そいつに笑いかけるのか!」……へたな表情をつけるよりはマシ……かもしれない……が、足りない、これだと、やはりことばの意味の中にいる。感覚的に言えば、身体が余った感じがする。

 太田省吾と転形劇場が私たち研究生に求めたのは、世の中に流通する演技のうまさではない。ことばに表情をかぶせたような演技は醜い、と太田はどこかで書いていた。表現者として舞台に立つ、太田はそれを研究生に求めた。
 太田は言った。「稽古とはいえ、結論をみせてくれ。課程は見せなくていい。」 だから、決められた稽古時間より早く行って、相手役と相談したり、合わせてみたりした。が、うまくいかない。これまでやってきた4~5年の演劇経験や見てきたものがまるで役に立たない。どうすればいいんだ!?

行為している人のことばというものと、議論している人のことばというものは、違う。 (小川国男『彼に尋ねよ―対談集』) とすれば、私は<議論している人のことば>から遠ざかりたいと思っているのであり、<行為している人のことば>をことばであると考えようとしているのだ。(略)<行為している人のことば>とは、現に今かれがやっていることが前提となって吐かれることばである。<直接的な事実>を前提とすることばであり、粉飾のきかぬことを手にした者のことばである。そして、それは身体をもった者のことばである。 (太田省吾「自然と工作」『裸形の劇場』『プロセス』所収)
行為をするのは演技者である私だ。だから、私はその行為を発見しなければならない。でも、どうやって……?

劇の本質的な特性は、舞台に直接立つ者の登場をもって開始されるところにあるのであり、これしかない身体を立てることにあるのである。それは、着ぶくれした姿ではなく、脱衣した姿をあらわすことであるはずである。 (同上)

 太田省吾が求めるもの、それはことばでは理解できる、ような気がする。が、それをどうやって具体化するのか。途方に暮れた。……こうして当時を振り返るのは面白いものだ。今の私なら、こういった悩みこそ喜んで引き受ける。この「謎」があるからこそ、演技は表現とよばれるべきものになるのだから。そして、それは自分の中に、それまで知らなかった、あるいは気づかなかったもうひとりの自分を見いだすことでもあるのだから。(ソロ・ライブ「町でいちばんの美女」の稽古は、その発見の連続だった。)

 ある日、それは訪れた。稽古前の時間に相手役のMさんにお願いした。ここで、あなたの脚を取って、その脚ににしがみついてもいいだろうか、と。Mさんは頷いた。それでやってみた。……「だめだ、おれは許さないぞ。」……言いながら、摑んだMさんの脚の白足袋の踵に歯をあてて噛んでいた。……みじめな兄の姿がそこにあった。そして、それは同時に私だった。やっとことばと行為が出会った気がした。

 転形劇場での演技はことばとの格闘だった、といえる。そこから沈黙劇も生まれたのだ。そのあたりのことを思い返しながら考えていく。これからの私のために。
 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿